2019年4月22日 (月)

『大阪弁おもしろ草子』「ちちくる」を読んで その5

「てかけ(p.32)」というのは、今さらながらすごい直接的やなと。

「めかけ」の「目をかける」をこえて、「手をかける」からなので。

 

「そばめ(p.32)」は知らない語彙であったが、これはそばに置く女ということだろう。

そばというのが、時代がかっている。側室感が強く、そばに置くというのは、今どきありえない関係であろう。

 

著者は、「てかけ」に対する「厚顔さを憎む(p.32)」に対して、「そばめ」に対する「べつに引っかからない(p.32)」という所感である。

直接的ではないからか、時代小説で慣れてしまっているからか。

 

目をかけてそばに置き、手をかけるが、妥当な順番なのか。

あるいは、目をかけて手をかけたから、そばに置いたのか。

 

女性に対するこういう語彙は、今の時代ではどんどん使えなくなる。

でも、辞典に残さなければ、過去の話は分からなくなる。

 

使用語彙でなくても、理解語彙であればいい。

昔の話を読むためには、こういう語彙も知っておく必要はある。

 

『大阪弁ちゃらんぽらん』の時にも出てきた、妊婦を「ぼてれん(p.33)」というのもそう。

擬態語からのストレートな表現。語形成としては自然なので、言語学的観点からは受け入れざるを得ない。

 

私の子供のころには、「ぼてれん」は使わず、「はらぼて」だった。

昭和50年代では、ごく普通に使っていた。私の中ではいつの間にか使わなくなっていた。

 

今の大阪で使われているかどうかは、20年以上離れているので実態は知らない。

まあ、公の場で使われていないのは昔からそうなので、若者にとってはきっと死語だろう。

 

 

 

「てかけ」のアクセントは、LLH(~HHH)。

「めかけ」は、HHH。

「そばめ」は、LLH。

 

「ぼてれん」は、LLHH。

「はらぼて」は、LLLH。

 

その6につづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年4月 2日 (火)

『大阪弁おもしろ草子』「ちちくる」を読んで その4

「げんくそ悪い(p.31)」は、「げんをかつぐ」の「げん」なんだろうが、使わない。

「げんが悪い」「げんがええ」も、私の中では、理解表現ではあるが、使用表現ではない。

 

「げん直し」は、使おうと思えば使えるという程度か。

周りが大阪弁で、ある程度の年齢の人たちであれば、口から出てくるかもしれない。

 

ただ、大人の付き合いで出てくる言葉で、子ども相手にいう言葉じゃない気がする。

また、これは大阪弁に特化している気がしない。大辞林の見出し語にあるし、特に方言と書かれていないし。

 

世界大百科事典だと、漁師用語となっている。

大阪発のことばではないというのがあっている気がしてならない。

 

「げん」は「縁起」の音位反転という説があるが、概ねあっている気がする。

「宿」から「ドヤ」、「はまぐり」から「ぐれはま」で「ぐれる」といったようなものだろう。

 

「縁起もんや」の意味での「げんのもんや(p.31)」も使ってないし、もらってない。

だるまも招き猫もうちにはなく、節句もちゃんと流行ってないし。

 

えべっさんは、大阪を離れてからすっかりご無沙汰やし。

福笹でもうちに置いとこうか。ただ、商売っ気がない私に、商売繁盛は縁がないような気がする。

 

 

「げん」のアクセントは、LH。

「げんくそ悪い」は、LLLH HLL。

「げんをかつぐ」は、LLH HHH。

「げんが悪い」は、LLH HLL。

「げんがええ」は、LLH LH。

「げん直し」は、LLHLL。

「げんのもん」は、LLLHL。

 

「宿」は、LH。「ドヤ」は、LH。

「はまぐり」は、LHLL。「ぐれはま」は、LLLH。「ぐれる」は、LLH。

 

「縁起」は、LLH。「縁起もん」は、LLLLH。

「えべっさん」は、HHHHH。「福笹」は、LLHH。

 

 

その5につづく。

 

2019年3月30日 (土)

『大阪弁おもしろ草子』「ちちくる」を読んで その3

全くもって個人的な問題なのですが、ココログの仕様が変わってちょっといらいらしています。

なかなかなじめなかった結果、更新がものすごく遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。

 

 

「インケツや(p.30)」という言い方は、じゃりン子チエで覚えた。

オイチョカブで、手札の数の合計が1だと一番弱いので、イチ+ケツからできたのだろう。

 

普段はオイチョカブとは言わず、カブと言ってるが、株式と間違われるとまずいので、あえてそう書いた。

亡くなった祖父に、子どもの頃に教わったので、一応のやり方は知っている。

 

ただ、花札でできる域には達していない。花札の絵札が何月なのかを覚えていなければできないので。

どうもこの手の暗記は全般的に苦手である。だから、基本的には株札、ない時はトランプを使っていた。

 

さて、カブは、2枚あるいは3枚の札の合計の下1桁で勝負が決まる。

よって、0~9までの10通りとなる。

 

この呼び方にも方言はあるのだろう。自身の内省では以下の通りである。

0:ブタ、1:インケツ、2:ニタコ、3:サンタ(コ)、4:シニ、5:ゴケ、6:ロッポ、7:ナキ、8:チョウベエ、9:カブ。

 

あとは、9と1ならクッピン、4と1ならシッピンという役がある。

教わったこと以外特に勉強していないので、その他の役はよく知らない。

 

私の中では、クッピンは親のみ、シッピンは親子ともにという役。よって、親のクッピンが最強。

ブタは最弱ではなく、勝負から降りれる手。これも四六のみというのが多いようだが、私は何でもありでやっていた。

 

だから、インケツが最弱。

そうでなければ、ケツという言い方がおかしくなってしまう。

 

さて、日常会話で「インケツや」を使うかどうかだが、使ったことはない。

使ったとしても、テツのモノマネだろう。

 

麻雀や競馬については、日常用語に用いられているのはそこそこあるが、カブは定着しにくいか。

ギャンブルというより賭博という印象が大きいから避けているような気がする。

 

 

 

「インケツ」のアクセントは、HLLL。

「ニタコ」は、LLH。「サンタ」は、HHH。「サンタコ」なら、LLLH。

「シニ」は、HH。「ゴケ」は、LH。「ロッポ」は、LLH。

「ナキ」は、HH。「チョウベエ」は、HLLL。長音なしの「チョウベ」は使わないが、HLL。

「カブ」は、HH。「ブタ」は、LH。

 

「クッピン」は、HHHH。「シッピン」は、HHHH。

「四六(シロク)のブタ」は、LLLH LH。

 

「オイチョ」も使わないが、HHH。「オイチョカブ」は、HHHLL。

 

「ケツ」は、HL。「イチ(1)」は、HL。

 

「じゃりン子チエ」は、HHHHHL。

「チエちゃん」は、LHLL(~HLLL)。これは映画版でも、声優によってゆれがある。

「テツ」は、LH。

 

 

 

その4につづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年2月18日 (月)

『大阪弁おもしろ草子』「ちちくる」を読んで その2

田辺さんにとっては、「ポチ」は耳障りな言葉であるらしい。
私にとっては、全く耳障りではない。

ここでいう「ポチ」は、小さい点のことでも犬の名前でもない。
また、ボタンを押す時の擬音語ポチッとなでもなければ、派生形のポチるでもない。

「ポチ」は、心付や祝儀のことを指す。
よって、お年玉を入れる袋を「ポチ袋」と呼んでいる。

かつては、大阪から東京に進出した百貨店が、新聞広告に「ポチ袋いろいろ」と書いて伝わらなかったようだ(p.30)。
今では十分共通語のように思えるけど、自身で確認したことはない。

正月に会う子供はほとんどいないため、ポチ袋を準備したことがない。
大阪の家に行けば置いてくれているので、いつもそれをもらっている。

もはや、この歳でポチ袋をもらうことはなく、渡す一方である。
チップをもらえるような仕事をしてないし、もらえるとしたら祝儀袋だろうから。

ポチ袋は小さい祝儀袋。「これっぽっち」の「ぽっち」から来ているのではなかろうか。
もともとは「これっぽち」だったのかもしれない。

そういう意味では、この程度しか渡せませんがという美徳を感じる。
だから、ポチ袋の中身が少なくても文句を言ってはいけない。





「ポチ」のアクセントは、HL。
「ポチ袋」は、LLHLL。

「これっぽっち」は、HHHHHL。
「これっぽち」なら、HHHHL。




その3につづく。




2019年1月28日 (月)

『大阪弁おもしろ草子』「ちちくる」を読んで その1

ちちくる ―上方弁の淫風 pp.23-39

野菜などの食べもんに「お」をつける話は、以前にも書いた。
私の内省で使うものと使わないものがある。大阪弁として言うかどうかではなく、私が言うかどうかの話。


大根の「おだい」や菜っ葉の「お菜さん」は私は使わない。
豆を「豆さん」とは言いにくく、「お豆」なら言える。「お豆さん」が言えるのは、フジッコの影響かもしれない。

かき餅の「おかき」は言えるけど、饅頭の「おまん」は言わない。餅の「おもち」は言える。
汁の「おつゆ」は言える。味噌汁も「おしる」。「お味噌のおつゆ」は冗長過ぎて言わない。

粥は「おかいさん」も「おかい」も言える。雑炊の「おみい」は言わない。
油揚げは「おあげさん」「あげさん」とは言うが、「おあげ」は言わない。

芋が「おいも」、なすびが「おなす」はそれぞれ言える。
じゃがいもでも、さつまいもでも、さといもでも「おいも」。山芋はさすがに「おいも」ではない。

野菜は他に思いつかない。本文p.24にもあるように、きゅうりを「おきゅう」、ごぼうを「ごぼうさん」とは言わない。
「にんじんさん」「さんしょうさん」「しいたけさん」「ごぼうさん」「れんこんさん」だと『おべんとうばこのうた』になってしまう。

しかし、地味な弁当である。茶色ベースの弁当って、昔のおばあちゃんというイメージがぬぐえない。
最近は、山椒がさくらんぼになったようである。それはそれで、バランスが悪い。

閑話休題。キャベツやレタスやトマトは外来語だから、「お」も「さん」も違和感あり。
「おレタス」なんてのを聞いてしまうと、喜劇に出てくる貴婦人のように感じる。

南瓜(かぼちゃ)やほうれん草は、漢語だからやはり「お」や「さん」には違和感がある。
「おなんきん」や「おほうれんそう」は長すぎて語呂が悪い。「お白菜」も、かなり変な感じ。

かぶを「おかぶ」、たまねぎを「おたま」とは言わない。
「おたまねぎ」は無理だが、ねぎの「おねぎ」は言える。

漬物の「おこうこ」も私は言わない。「香々」の縮まった形だが、使わない。
単純に「つけもん」というか、洒落たとこでは「香の物」。「おこう」だと、焚くものになってしまう。

豆腐の「おとうふ」は普通に言えるが、「おとふゥ」にはならない。
「サンザカ>サザンカ」のような音位転換は、私の内省では起こさない。





「ちちくる」のアクセントは、HHHL。


「大根」は、HLLL。「おだい」はよく分からないが、私が発するとすれば、LHL。
「菜っ葉」は、LLH。「お菜さん」は、LHLL。

「豆」は、LH。「お豆」は、LHL。
「豆さん」は、LHLL。「お豆さん」は、LHLLL。

「かき餅」は、LHLL。「おかき」は、LHL。
「饅頭」は、HLLL。「おまん」は、LHL。
「餅」は、HH。「おもち」は、LLH。

「粥」は、LH。「おかいさん」は、LLLLH。「おかい」は、LLH。
「雑炊」は、LLLH。「おみい」は、LHH。
「油揚げ」は、HHHLL。「おあげさん」は、LLLLH。
「あげさん」は、HHHH。「おあげ」は、LLH。

「芋」は、HL。「おいも」は、LLH。
「じゃがいも」は、LLLH。「さつまいも」は、HHHLL。「さといも」は、HHHH。「山芋」は、HHHH。

「なす」は、HL。「なすび」は、LHL。「おなす」は、LHL。
「きゅうり」は、HLL。「おきゅう」と言うなら、LLH。
「ごぼう」は、HHH。「ごぼうさん」は、HHHHH。

「にんじん」は、LLLH。「にんじんさん」は、LLLLLH。
「山椒」は、HHH。「さんしょう」は、HHHH。「さんしょうさん」は、HHHHHH。
「しいたけ」は、HLLL。「しいたけさん」は、HLLLLL。
「れんこん」は、HHHH。「れんこんさん」は、HHHHHH。

「さくらんぼ」は、LLHLL.。

「キャベツ」は、HLL。「レタス」は、HLL。「トマト」は、LHL。「おレタス」なら、LHLL。
「なんきん」は、HHHL。「かぼちゃ」は、HHH。「ほうれんそう」は、HHHHHH。
「おなんきん」なら、LHLLL。「おほうれんそう」は、LHHHHHH。
「白菜」は、HLLL。「お白菜」なら、LHLLL。

「かぶ」は、HH。「おかぶ」は、LLH。
「たまねぎ」は、LLHL。「おたま」は、LHL。「おたまねぎ」は、LLLHL。
「ねぎ」は、LH。「おねぎ」は、LHL。

「つけもの(つけもん)」は、LLLH。「おこうこ」は、LLLH。
「香々」は、LLLH。「香の物」は、LLLHL。「おこう」は、LLH。

「豆腐」は、LLH。「お豆腐」は、LLLH。「おとふゥ」は、LLLH。


その2につづく。


2019年1月 6日 (日)

『大阪弁おもしろ草子』「よういわんわ」を読んで 補遺

「よういわんわ」の話は、尾上圭介『大阪ことば学』(1999、創元社)にもとりあげられている。
ここでの記述に対して、私の内省では若干変わってくるので、所感を示しておくことにする。

「よう行かん」が能力不可能、「行かれへん」が状況不可能という区分に、基本的には同意する。
ただ、私の内省では、後者はどちらにでも使えるようになっている。

p.87の例で考えてみると、「そんなこと、よう行かんわ」は、「そんな遠いとこへ呼びつけるなや。行けるかいな。」という状況不可能では使えず、「行かれへんわ」の方が自然である。

「自分の体力、気力が足りなくて行けない」という能力不可能では、「よう行かん」でも「行かれへん」でも、どっちでもいい。
ただ、この場合、「よう行かん」はかなりしんどい時である。

ついで、p.91からについてだが、「よう」の否定形として「よう行かん」「よう行かへん」「よう行けへん」の3つがあるという。
私は、「行かん」「行かへん」「行けへん」はそれぞれ単独なら使える。

しかし、「よう」の後という条件では、「行かへん」は若干違和感あり、「行けへん」はかなり違和感がある。
また、私にとって「よう行かへん」「よう行けへん」は使用語彙ではない。

「行かん」と「行かへん」には、動作主の人称の違いがあるという。
前者はどの人称でも使えるが、後者は2,3人称でしか使えず、1人称では使われないとのこと。

私の内省では、「あいつ、よう行かへん」は、理解語彙としては若干の違和感がある。
使用語彙としては、「行かれへん」の方が自然である。

そして、この人称の区別は若い人の間ではくずれているようで(p.93)、昭和20年代後半生まれから30年代前半生まれまでの世代で変化があったとのこと。この著書での若い人に私は該当している。

それでも、私は使わない。「ぼく、よう行かへん」は、自分で使うとなると、結構気持ち悪い。
「ぼく、よう行けへん」だと、大阪弁じゃない気がしてくる。



「よう行かん」のアクセントは、HH HHH。
「行かれへん」は、HHHLL。
「行かへん」「行けへん」は、共にHLLL。



2018年12月 9日 (日)

『大阪弁おもしろ草子』「よういわんわ」を読んで その4

「ようせんわ」「よういわんや」を共通語に訳しにくい(p.16)というのは、同感である。/div>
この「よう」は、古文の「え~ぬ(打消)」から来ている。


「言えない」と「よう言わん」とはニュアンスが違うと私は思う。「よう言わん」を標準語に訳すると、
「とてもそこまでつっこんで言うことはできない、私の立場、私の才徳、私の器量ではそれほど私の手にあまることで、私では、なし能わぬことである」
という意味があるから、これをどうしても標準語にするとなると
「とっても言えないわ」
とでも付加しないといけなくなる。(p.17)


かなり丁寧な翻訳であると思うが、場面次第だろう。
私なら「とてもじゃないけど言えない」と付加するが、「とてもじゃないけど」は多義である。

恥ずかしいからもあれば、圧力があるからもある。くだらなすぎてもあれば、率直に言うのは失礼だからもある。
もう少し想像できれば、もっとあるだろう。

さて、大阪弁で不可能を表す表現には、「よう言わん」と「言われへん」がある。
「~できない」を「よう~ん」あるいは「~へん」で言うということである。

かつては、「よう~ん」が能力不可能、「~へん」が状況不可能という区別があった。
ただ、私の内省では、後者は両方の意味で使える。

疲れてものが言えない時には「よう言わん」となるが、言う場が与えられなかったときには「よう言わん」は使えない。
それに対して、「言われへん」はどちらの場面でも使える。

ただ、質の差は感じており、「よう言わん」の方が、深刻な感じがする。
「言われへん」より「よう言わん」の方が、よっぽど言えないことがあるんやなと感じる。

ただ、「よう~ぬ」は断言しているようで、そうではない。
このあたりも以下の引用部に同感できる。


この、「よう」というのをつけると、言葉のあたりも柔かくなるので、聞く人の耳にも障りがないように思われるのだが、どうであろうか。言えないわ、できないわ、というキッパリした断定とはちがって、
「よう言わんわ」「ようせんわ」
というと、アトをひく感じで、
「何でやいうたら……」
とか、
「そやかて(ビコーズ)……」
とか、その理由をつづけたくなる。(p.18)


「言えまへん」(p.18)は私は使わず、「言えません」と共通語化した。
私の世代で「言えまへん」は、すでに古くてベタな大阪弁と感じる。

断言する時には、「言えません」となる。
ただし、それはあいそもこいそもない。

だからといって、若干柔らかめにするために「よう」を使った「よう言えまへん」は、「よう言えません」では使えない。
「よう言えません」だと、大阪弁と共通語の混種語となってしまい、かなりの違和感がある。

余計なことを付け足す話し方というのは、大阪弁の特徴の一つであろう。
これが要らんことであるかどうかは、話し手の力量によるところが大きい。



「言う」のアクセントは、HH。
「言わない」は、HHLL。
「言わん」は、HHH。「言わへん」は、HLLL。
「よう言わん」は、HH HHH。「よう言わんわ」は、HH HHHL。

「言われへん」は、HHLLL。
「言えません」は、HHHHH。「言えまへん」は、HHHHH。

「する」は、HH。
「しない」は、HLL。「せん」は、HH。
「ようせん」は、HH HH。「ようせんわ」は、HH HHL。

「そやかて(せやかて)」は、HLLL。

「要る」は、HH。
「要らん」は、HHH。「要らんこと」は、HHH HL。



この章終わり。



2018年11月 2日 (金)

『大阪弁おもしろ草子』「よういわんわ」を読んで その3

「去ぬ(いぬ)」という古語は大阪では日常次元で使っているので、古語とは思えない(p.10)とあるが、私は既に古語のように感じている。
聞いたことがないとは言わないが、私の世代ではないと感じている。

「去のか? ぼちぼち」
「うん」(p.11)

「去ぬ」は若い人たちも使う(p.10)とあるが、少なくとも私は使わない。
田辺さんにとっての若い人たちに、私は該当しないようである。

田辺さんが昭和20年代に卸問屋の事務員をなさっていた頃の会話として、以下の例が挙げられている。
この頃の若い人たちは、すでに70代で私の親の世代となる。

外回りの販売員が帰ってきて、
「今日は黒犬のケツや。どこも『去ね去ね!』いいよる」
とクサったりしていた。去ぬ、を命令形でいうと去ね、であるが、景気が悪くて売り足が落ちると、小売屋も注文どころではなく、問屋の若い衆を見ると「去ね去ね」と追い返すのである。(p.11)

学生にはナ行変格活用の話をする時に、「死ぬ、去ぬ、往ぬ(いぬ)」の例を挙げる。
共通語では死ぬ以外は死語に近く、学生世代では明らかな死語である。

だから、とっさに活用形が出てこない学生がいる。
ただ、これは内省できなくても規則が分かっていれば、機械的に出てくるはずなんだが。

「黒犬のケツ」は、犬のケツにはしっぽが生えていることを想像すればよい。
黒い犬のしっぽは黒いから、白くない。だから、尾も白くない(=面白くない)ということ。

白犬は尾も白いの反対語である。
私の姉は便秘ですというくだらない話と比べて、どっちがおもろいのだろうか。



「去ぬ」のアクセントは、HH。
「去ね」は、HL。

「ぼちぼち」は、LLHL。

「黒犬」は、LLLH。「白犬」も、LLLH。「黒犬の」は、LLLLH。
「ケツ」は、HL。

「おもしろい」は、HHHLL。
「おもしろくない」は、HHHHL LH。
「おもろい」は、HHLL。
「おもろない」は、HHHLL。





その2につづく。






2018年10月22日 (月)

『大阪弁おもしろ草子』「よういわんわ」を読んで その2

「~わいな」は、私にとっては使用語彙ではない。
かなり古めかしく感じるか、南の方やなと感じるか。

「~わい」ですらほとんど使わないので、「わいな」はなおさら。
私が「行くワイ」というと、むしろエセ大阪弁のようになってしまう。

もちろんアクセントは大阪弁で言えるが、しっくりこない。
終助詞「わ」なら使うが、終助詞「わい」は、私の言葉にはなじまない。


死語になると、古典とのつながりというか臍の緒が断たれてしまうので、まことに残念であるが、しかし言葉は生きものだから、その変貌をおしとどめるすべはない。(p.8)


若い世代はたくさんの古語を葬り、たくさんの新語を作る。
今の若い人はことばを知らないという人もいるが、若者から見れば年寄りはことばを知らないと感じる。

この点は目くそ鼻くそ。古きことばを子々孫々まで残すなんてのは絵空事である。
まして、伝統芸能があまり好きじゃない私にとっては、なおさら。

「夜さり」という枕草子にも出てくる表現も、私の使用語彙ではない。
夜や晩のことを指すが、私の中では古典の世界で、昔の大阪弁とも感じなくなっている。

ただ、こういった表現については、20歳以降大阪に住んでないことも関わってる気がする。
他の地方に行って日常的に大阪弁を聞く機会は減っており、年配層の大阪弁はなおさら聞く機会に恵まれない。

だからといって、住み続けていたら使っていたかと言われたら、答えは否だろう。
その年齢に応じた感覚に合わなければ、使わなくなるので。

よって、今の私の言葉も若い世代に引き継がれないことに対する感慨は全くない。
そんなもんやろうと達観しているんで。



「行くワイ」のアクセントは、HHLL。
「行くわいな」は、HHHLL。

「夜さり」は、音声言語として聞いたことがないが、発音するならHHHか。
LLHになるかもしれないが、起伏型では発音しないと思う。


その3につづく。



2018年9月10日 (月)

『大阪弁おもしろ草子』「よういわんわ」を読んで その1

「よういわんわ ―古語について」pp.7-22

過疎ブログ久しぶりの更新で、『大阪弁おもしろ草子』シリーズに突入。
こちらは更新頻度が遅いので、このシリーズは何年かかって完結するのか。

拙速に書評を書くよりはのんびり読めるのがいい。
研究論文から大阪弁を眺めるのではなく、時代背景を追いながら違いを捉えていけるのがいい。

仕事ではないので〆切にも追われず。
でも、巡り巡って、自身に役立つ知識を提供してもらっている。

では、本題に。


上方弁に古語が残っているというのはよくいわれるが、どんどん標準語、あるいは共通語に変わっていってしまい、典雅な古語が死語になっていくのは寂しい。(p.7)


「うたて」が東北にも残っている(p.7)という話が冒頭にあるが、これは当然のこと。
古語は周辺に残るというのが、言語地理学における所見の1つ。

地域の中心部から新しい言葉が生まれる。
それが周囲に広がった頃に、中心部はまた新しい言葉を生み出している。

だから、中心部は古語が残ることがないわけではないが、失われることの方が多い。
そういう意味では、寂しさを感じない生き方がその地の必然なのかもしれない。

ユニバーサルスタジオジャパンが大阪にできた時、東京をはじめ多くの地方は頭文字語の「USJ」。
一方で、近畿一円は「ユニバ」とちゃんと日本語化させ、アクセントは「マクド」と同じでLHL。

昔なら周囲がユニバに浸食されていくものなのだが、今は東京中心なのでUSJが全国に広がる。
発信地が2か所の場合には、より中心である方が全国への影響力が高いことが分かる。

よって、大阪弁に共通語の流入は避けられない状況だが、その割には維持している表現はそれなりにあるし、今だ新語を発信しようとしている姿勢がいい。そして、生み出し続けることに疲れてたまに共通語に頼るというのもちょうどいい。

東京に方言が流入した場合は、大抵の場合用法を簡略化する。
群馬・長野や北九州の「あーね」や近畿の「それな」などはそう感じる。

「あーね」は若者言葉としては軽い相槌程度でしか使われないが、もともとは納得、理解、同意(それぞれ強弱の程度あり)、無関心といった多様な用法があるが、共通語化されるとその多様性は失われる。

流入して新たな意味が加えられる場合もあるが、「あーね」には今のところ見られない。
だから、理解や同意を示す時に、「それな」という異なる方言語形を用いている。

失っていく言葉もあれば、他の地域で残っている言葉もある。
そして、大阪弁は今なお新語を発信する気概を持っている。

それが典雅かどうかは抜きにして。





「うたて」のアクセントは、HHH。

「ユニバーサル」は、LLHLLL。
「スタジオ」は、HHHH。
「ジャパン」は、LHL。
「ユニバーサルスタジオ」は、LLHHHH HLLL。
「ユニバーサルスタジオジャパン」は、LLHHHH HHHH HLL~LLHHHH HLLL LHL。

「ユニバ」は、LHL。
「マクド」はLHL。

「あーね」は、理解語彙としてHHH。
「それな」は、HHH。




その2につづく。



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